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「太平洋戦争はアジア解放のための戦いだった」説は本当か?

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
ゼロ戦(イメージ)(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

 今年は日本の敗戦から75年を迎える。20年前ごろから、一般書籍や雑誌などで、特に右派系のオピニオンリーダーから、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」とする主張が乱舞するようになり、近年ではこの「先の戦争における日本の大義―アジア解放」を正当化する書籍等が跋扈している。戦後のいわゆる「東京裁判史観」を否定する右派は、長年この「大東亜戦争はアジア解放のための聖戦であった」説を用いたが、これを一般大衆に書籍として広めたのは漫画家の小林よしのり氏による『戦争論』(1998年)がその端緒であることは言うまでもない。

 以後、「太平洋戦争はアジア解放のための戦いであった」という主張は、右派の狭隘な界隈を飛び越えて一般書籍や雑誌の中でも登場し、いまや一定の支持を得るにまで至っている。しかし、この「太平洋戦争はアジア解放のための戦いであった」という主張は本当に正しい歴史認識なのだろうか。敗戦75年という節目を契機に、いまや書店で跳梁跋扈するこの説の正当性を検証してみる必要があるだろう。

・すべての侵略戦争にあった「大義名分」

ナチスとイタリアの戦争大義(筆者制作)
ナチスとイタリアの戦争大義(筆者制作)

 あらゆる戦争は、その侵略的性格の濃淡を問わず、必ず戦争開始の大義名分が付与される。ナチスドイツが1939年9月、ポーランドに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した際、その戦争大義は「ドイツ固有の領土・ダンツィヒの奪還(およびドイツ人の東方生存圏の拡大)」であった。第一次世界大戦に敗れて敗戦国になったドイツは、東プロイセンの港湾都市ダンツィヒを自由都市として認めざるを得なかったが(そのため、東プロイセンは飛び地になった)、この街はもともとドイツに属する都市であった。そこでヒトラーはポーランドに対しダンツィヒの割譲を迫った。ポーランドは当然これを拒否した。よって戦争が始まる。これがナチスの戦争大義である。

 他方、独裁者ムッソリーニ率いるイタリアは、第二次大戦の前後、アルバニアやギリシャに侵攻したが、この時の戦争大義は「未回収のイタリアの奪還」であった。イタリアはドイツとは対照的に第一次大戦では戦勝国であったが、特にアドリア海沿岸のイタリア語圏の諸地域についてイタリアの納得できるような領土支配は認められなかった。ムッソリーニは「イタリア語がイタリア語で聞こえる範囲」を「未回収のイタリア」と呼び、この地域における領土的請求権を欲した。つまり「未回収のイタリアは、イタリア固有の領土である」という戦争大義である。

 一方日本は、1941年12月8日の真珠湾攻撃に際し、対連合国開戦の戦争大義として1)「自存自衛」と2「アジア解放」を掲げた。自存自衛とは、主に米英からの経済圧迫に対し自力で対抗する必要に迫られたこと。アジア解放とは、第二次大戦当時にタイ王国を除くほとんどすべての地域が欧米列強の植民地か自治領であったので、有色人種である日本が、この欧米人における植民地支配からアジアを開放する―、という名目である。

 当時日本は、日独伊三国同盟に加盟し、1940年にフランスがドイツに屈服したことから、親独的中立政府であるヴィシー政権(南仏)と協定を結んで、フランス領インドシナ(仏印=現在のベトナム、ラオス、カンボジア等)に進駐した(1940年北部仏印、1941年南部仏印進駐)。これにより、アメリカは日本が太平洋方面に領土的野心を持つとことさら警戒し、くず鉄や原油の輸出等に厳重な規制を設けた。当時、鉄や原油のほぼすべてをアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、アメリカの経済制裁は死活問題であった。しかし、「アメリカの経済制裁が気にくわないから」という理由だけでは対米開戦としての大義は弱いので、日本は対米開戦にあたり「アジア解放(大東亜戦争)」をスローガンに掲げたのである。

 実際、日本軍による「アジア解放」は1941年12月8日の真珠湾奇襲と同時に、当時英領マレーのコタバルに奇襲上陸することによって開始された。これを南方作戦という。しかし南方作戦の目的は、特にアメリカと持久戦になった場合、アメリカやイギリスからの資源輸入が完全に断絶することを念頭に置いた資源地帯の確保であった。南方地帯には、大規模で良質な油田(パレンバン、バリクパパン=蘭印=現インドネシア)があり、さらに航空機や戦車の生産に欠かせないゴムやボーキサイト等の天然資源があった。

「アジア解放」の真の目的とは、これら資源地帯の制圧であり、これらの地帯から算出される重要資源を日本にピストン輸送して生産力を増強し、対米持久戦に備える(―実際にはアメリカ軍潜水艦等の通商破壊によって瓦解した)という、実際には日本の利益だけを考えた作戦行動であった。しかし「対米決戦のための資源の確保」では大義名分として弱いから、日本の戦争大義はあくまで「アジア解放のための戦い」をスローガンとした。このスローガンを真に受けたのが、先に述べた「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」とする戦後右派の主張である。

・「アジア解放」のお寒い実態

アジア解放の実態・筆者制作
アジア解放の実態・筆者制作

 では、実際に日本の「アジア解放」の実態はどのようであったのかというと、その作戦行動は大本営の予想をはるかに上回る短期間で大成功を収めた。日本軍は、英領マレーを嚆矢として、蘭印、フィリピン、ビルマ等を次々といとも簡単に制圧した。これらの地域は、例外を除いて実践経験のない現地植民地軍が駐屯しており、1937年の日中戦争から実戦を積んだ日本陸軍の部隊の前に簡単に降伏してしまった。特にイギリスの圧政に苦しんだビルマでは、当初日本軍は植民地支配からの解放軍として迎えられた側面があることは事実である。

 しかし実を言うと、当時アメリカの自治国であったフィリピン(フィリピン・コモンウェルス=フィリピン独立準備政府)はアメリカ議会からすでに1945年の独立(フィリピン・コモンウェルス成立から十年後)を約束されており、日本軍の侵攻による「アジア解放」というスローガンは全く無意味として映った。よって南方作戦で日本軍に占領されたフィリピンでは、そもそも日本の戦争大義が受け入れられず、またアメリカの庇護下のもと自由と民主主義、そして部分的には日本より高い国民所得を謳歌していたフィリピン人は、日本の占領統治に懐疑的で、すぐさまゲリラ的抵抗や抗日活動が起こった。これは華僑の多いシンガポール(日本は同地を占領後、昭南島と改名)でも同様で、日本の戦争スローガンに同意せず、激しい地下抵抗運動が盛り上がった。オランダに数世紀にわたって植民地支配されていた蘭印(インドネシア)でも、その実態は島嶼や地域ごとに強固な部族社会が形成されており、日本軍の占領統治に懐疑的な地域も多く存在したこともまた事実である。

 とはいえ、日本は戦争大義を「欧米からのアジア解放」と定めたので、これらの占領地域を野放しにしておくわけにはいかない。そこで占領期間中、ビルマやフィリピンを形式的に独立させ、1943年11月には日本の戦局が怪しくなる中、これらの国々(中国による日本の傀儡である汪兆銘政権や満州国を含む)の代表を東京に招聘していわゆる「大東亜会議」が開催され、日本の戦争大義である「アジア解放」がいかに正しいのかが内外に喧伝されることになった。ところが、これはあくまで日本を頂点とした傀儡国家の野合に過ぎず、実際には日本は、資源地帯の要であるインドネシア、マレーについては最後まで独立を許すことはなかった。なぜかといえば、前述したとおりこれらの地域では、石油やゴム、ボーキサイトなどの戦略上重要物資が産出されるためで、勝手に独立されては資源を意のままに採掘することができないため、最後まで日本はこの地域の独立を認めなかったのである。

「アジア解放」と謳っておきながら、最も重要な地域は独立させず、最後まで日本の直轄地域とするというのは完全な矛盾であるが、このような矛盾を見ない事にして、日本の戦争大義「アジア解放」は展開されたのであった。これが日本の掲げた戦争大義の偽らざる実相である。

・「アジア解放」の一方でアジアを侵略中

 日本による「アジア解放のための戦い」という大義名分は、実のところ1941年12月8日の真珠湾攻撃をきっかけとする対米開戦以前から大きな矛盾を抱えていた。日本は1931年に満州事変を起こすと、関東軍を主体として満州(中国東北部)一帯を軍事占領し、清王朝最期の皇帝溥儀(ふぎ)を奉って満州国を建国した。満州国は「五族協和=日本人、満州人、モンゴル人、朝鮮人、漢民族」による理想の独立国とされたが、実態には完全な日本の傀儡国家で、国際社会からは承認されず、よって日本はこれを不服として1933年に国際連盟から脱退した。

 つづく1937年、盧溝橋事件を端緒として日中戦争が勃発すると、日本軍は中華民国(蒋介石の国民党)の首都である南京を占領した。これにより蒋介石が首都を捨てて奥地の重慶に撤退すると、日本軍は陸上からの重慶攻略の先鞭として、同市に徹底的な戦略爆撃を行った(重慶爆撃)。この爆撃は日本軍の精密爆撃技術が未熟だったこともあり、多数の民間人が巻き添えを食らった。この重慶爆撃と日本の中国侵略に猛烈な反対声明を出したのは、何を隠そう、当時英領インド帝国でガンジーと共に独立運動を展開していたネルー(のちのインド初代首相)で、その要旨は「同じアジア人である日本が、同じアジア人(中国)を侵略し爆撃するのは反対」という、至極まっとうな見解であった。

 つまり日本は、アメリカとの戦争の際「アジア解放」を掲げていたが、それよりさらに前の段階で、同じアジア人に対し攻撃を加えていたのであった。よって多くのアジア地域では日本の戦争大義「アジア解放」は、美辞麗句で空疎なものと映った。満州事変と日中戦争の延長線上に太平洋戦争があるわけだが、日本は対米開戦の時点で「アジア解放」とは真逆のことを平然と行っていたのである。

「アジア解放」を謳いながら、片方で同じアジア人である中国を侵略するのは完全な矛盾である。しかし戦後の右派、さらに冒頭に述べた「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」という主張を支持する右派は、この日本帝国の自己矛盾をどう解決したのだろうか。答えは簡単で、「日中戦争はコミンテルンの謀略であり、日本は戦争に引き込まれた被害者である」というものである。これは筆者の別稿に詳しいが、総じてこれを「コミンテルン陰謀史観」という。要するに日本における中国侵略は、コミンテルン(共産主義者組織)によって画策された謀略であって、日本は断じて中国を侵略していない―、という理屈をこしらえたのである。

 当たり前のことだが、繰り返すように日本による戦争大義「アジア解放」と、日本による中国侵略は真っ向から矛盾する。よって「アジア解放」という日本の大義を正当化するならば、日米戦争以前に行われていた日本による「同じアジア人への侵略行為」をも正当化しなければならない。これによって創造されたのが「コミンテルン陰謀史観」だが、実際にはこのような事実は存在せず、満州事変以降の日本による中国侵略は、日本の権益確保と国益のために行われた(―この辺りは、秦郁彦著『陰謀史観』新潮社、に詳しい)。

 よって土台、1941年12月8日以降の太平洋戦争における「アジア解放」という戦争大義は、それ以前から重大な自己矛盾を内包しており、当時のアジアにおける独立運動家からも日本の中国大陸侵略は「アジア解放とは真逆のもの」として批判の対象になっていたのである。この事実を、戦後の右派は全く無視している。これは歴史修正主義と言わなければならない。冒頭に記述した小林よしのり氏の大ヒット作『戦争論』にも、太平洋戦争における日本軍の欧米植民地の「解放」の成果ばかりが強調されているが、その前段階から行われていた日本の中国侵略についての記述は希薄である。当たり前のことだが、片方で「アジア解放」と謳っておきながら、片方で同じアジア人を侵略しているという事実から目を背けないと、「日本のアジア解放という大義」の理屈は成立しえないからである。

・アジア諸国独立における日本の功績はあったのか

インパールの戦争博物館の前に立つ筆者(2017年)。展示にはチャンドラボースの功績は讃えられているが、日本軍の功績の類の記載はない。
インパールの戦争博物館の前に立つ筆者(2017年)。展示にはチャンドラボースの功績は讃えられているが、日本軍の功績の類の記載はない。

 確かに第二次大戦後、アジアの欧米植民地は次々と独立を果たした。この一点を以て、戦後の日本の右派も、現在それを支持する保守界隈やネット右翼も、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」と主張している。しかし実際に、短期間であるとはいえ日本軍の東アジア一帯の制圧(南方作戦)が成功したことは事実だが、それがのちのアジア諸国の独立とダイレクトに結びついたかどうかは疑わしい。

 日本が進駐し占領した仏印(インドシナ)は、戦後フランス軍が戻ったが、現地人が独立軍を結成し、フランスからの独立戦争を戦った末、インドシナの独立が確定した。フィリピンは前述のとおり、すでに日本軍侵攻の前の段階でアメリカ議会から独立が約束されていたので自然にそれを達成した。蘭印(インドネシア)については、現地の残留日本軍兵士が戦後戻ってきたオランダ軍との独立戦争に加わった事実はあるが、あくまで独立戦争の主体はインドネシア人であった。そしてインドの独立運動家、チャンドラ・ボースを対イギリス戦争のためのシンボルとして祭り上げた日本であったが、ボースは終戦直後、台湾で航空機事故死したために、インドの独立にはほとんど関与しないまま世を去った。何よりインドの独立運動は、日本軍がビルマやインパールに侵攻するはるか前からガンジーらによって続けられており、日本軍による関与がインドの独立につながったとする評価は、現地でもほぼ皆無である。

 しかしこうした事実を述べると、「日本軍のアジア解放は、結果として失敗したが、敗戦後、現地人の独立精神に影響を与えた」という日本の右派による二の矢、三の矢が用意されている。前述小林よしのり氏の『戦争論』の結論がまさにそれである。もちろん、南方作戦における日本軍の一時的な作戦成功が、現地人に宗主国への独立の可能性を抱かせた側面はゼロとは言えない。だが、第一次大戦後、そして第二次大戦後、世界中でポスト・コロニアル(脱植民地化)の動きが起こり、戦争の戦勝国であったイギリスやフランスの植民地が次々と独立した。アフリカ諸国の独立はこのような流れの中で行われた。まさかナイジェリアやアルジェリアの独立が「日本によるアジア解放の影響を受けた」とする人間はおるまい。日本軍が関与する、しないに関わらず、第二次大戦後世界中で植民地独立の流れが起こったのである。これは当時の世界の潮流であった。

 事程左様に、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」とする主張は、戦後の日本の右派が勝手に作り上げた日本側に都合の良い歴史解釈であり、事実を正確に照合していない。実際に安倍晋三首相による戦後70年談話(2015年)には以下の様にある。

(第一次大戦後)当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

出典:戦後70年談話・強調筆者

 史実はこの談話のとおりで、「日本はアジアの解放の一翼を担った」とか、「日本は敗れたけれどアジア解放という大義名分は正しかった」などとは一言も書かれていない。いい加減、日本の右派は、「太平洋戦争(―彼らは大東亜戦争と呼称する)はアジア解放のための戦いであった」という与太話を捨て、戦後75年という契機に、もう一度先の戦争における日本の大義の脆弱さ、矛盾、うさん臭さを内省すべきではないか。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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